広島高等裁判所岡山支部 昭和53年(行コ)1号 判決 1981年1月20日
控訴人(原告) 小山公基
被控訴人(被告) 岡山県知事 外三名
主文
本件控訴をいずれも棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
一 申立
控訴人は
「一 原判決を取消す。
二1 被控訴人岡山県知事が
(1) 昭和三五年七月三〇日岡山県と被控訴人株式会社クラレとの間で締結された原判決別紙物件目録記載の土地の売買契約につき、岡山県のために、被控訴人株式会社クラレに対し解除又は取消の意思表示をなし右土地を取戻すべきであつたのにこれを怠つたこと
(2) 昭和四四年二月頃前記土地が被控訴人株式会社クラレから同三菱重工業株式会社に転売され、同年九月所有権移転登記がなされたため、岡山県が同土地を取戻し得なくなつた結果被つた損害につき、被控訴人加藤武徳、同株式会社クラレ及び同三菱重工業株式会社に対し損害賠償請求権を行使すべきであるのにこれを怠つていること
がいずれも違法であることを確認する。
三 被控訴人加藤武徳、同株式会社クラレ及び同三菱重工業株式会社は各自岡山県に対し二二億三三九四万九六〇〇円並にこれに対する被控訴人加藤武徳及び同株式会社クラレは昭和四四年八月二三日から、被控訴人三菱重工業株式会社は同月二四日からいずれも完済まで年五分の割合による金員を支払え。
四 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」
との判決及び三項につき仮執行の宣言を求め、
被控訴人らは控訴棄却の判決を求めた。
二 主張及び証拠関係
当事者双方の主張及び証拠の関係は次に付加するほか、原判決事実摘示のとおりである(但し原判決四枚目表一〇行目の「第三九号証」の次に「の一ないし三」を加え、同五枚目表一行目から五行目までを「その余の丁号証が真正に作成されたということはいずれも知らない。」と、同三〇枚目表下段七行目の「(被告三菱重工業株式会社)」を「(被控訴人ら)」とそれぞれ改め、同三三枚裏上段九行目の「岡山県は」の次に「倉敷市とともに」を加え、同下段一一行目の「は、岡」から同三四枚目表下段一行目の「その内容も」までを「の内容は」と改め、同裏下段末行の「誘致した」の次に「い」を加え、四一枚目裏下段二行目の「一二日」を「二四日」と改める。)からこれを引用する。
(控訴人の主張)
一 原審裁判所を構成する各裁判官は裁判所の使命たる基本的人権の擁護と行政の恣意の抑制という義務を忘却し、偏見をもつて審理を進め、経験則に反する事実認定をして控訴人の請求を退け、被控訴人らの違法な行為を正当化した。
従つて原審を構成する各裁判官は、良心に従つて合議をつくしたとは解し得られないから、右裁判官は何れも憲法七六条三項の要請する独立性と憲法的良心を持つた裁判官ではなかつたというほかはない。
よつて原判決は憲法七六条三項に適合しない裁判官によるものであるという点で違法な判決であるといわざるを得ない。また原裁判所の構成員の一人である裁判官竹原俊一は言渡しの約九か月前の昭和五二年四月一日福井地方裁判所武生支部へ転任しており、同裁判官が合議に関与しておれば、転任後九ケ月もして判決が言渡される筈はないから、原判決には同裁判官の加わらない合議に基づいて言渡されたという違法がある。
二1 県有財産である本件土地の売買契約は私法上の行為であつて行政処分ではない。従つて県知事が解除権を行使するについては行政処分において認められているような意味での自由裁量は与えられていない。
そして県知事は岡山県の代表者として県民のために県有財産を管理保全すべき義務を負つた受任者であるから、本件土地の売買契約における県知事の裁量権は、受任者としての地位に基づき善良な管理者としての注意義務に反しない範囲における極めて狭いものにすぎない。本件において、売買契約の条件である一定の期日までに工場を建設すべき被控訴人クラレの義務が履行不能となつている以上、売主たる岡山県の代表者として県知事は民法の原則に従つて契約の解除をすべきであり、そこに裁量を容れる余地はない。然るに岡山県知事であつた被控訴人加藤は違法に解除権を行使しないのみか自ら積極的に被控訴人クラレから被控訴人三菱重工への転売を斡旋して岡山県に損害を与えたのである。
2 地方自治法の諸規定からすると地方公共団体の長は地方公共団体の財務会計上の問題については自由裁量権を本質的に与えられておらず、また住民訴訟は地方公共団体における住民一般の財務会計上の利益を擁護するため認められているのであるから、これらのことからすると財務会計上の問題として議会の議決を経た本件土地の売買契約について相手方の履行がない以上、地方公共団体の長は当然解除権を行使すべきであり、この点について裁量権の発生する余地はない。
3 仮に契約解除権の行使が行政処分であるとしても、債務不履行が存する以上、解除権を行使するか否かについて自由裁量は許されない。
三 地方自治法九六条一項九号の規定によると地方公共団体が権利を放棄するには議会の議決が必要である。従つて被控訴人知事は県議会の議決がない以上、被控訴人クラレ及び同三菱重工に対し損害賠償請求権を行使すべきであり、これを怠つていることは明らかに違法というべきである。
四 被控訴人三菱重工は昭和五〇年までに二〇〇億円を投資して自動車生産設備を建設することを約していながら本件土地の譲渡を受けて約一〇年を経た現在、本件土地に工場の建設をしないままこれを放置している。従つて被控訴人クラレから同三菱重工に対する本件土地の譲渡はいわゆる土地ころがしにすぎないのである。
(被控訴人岡山県知事、同加藤武徳の主張)
一1 岡山県が本件土地を被控訴人クラレに売渡した主要な目的は岡山県開発公社の基本財産を取得するにあつたのであり、他方被控訴人クラレにおいては本件売買契約締結当時工場建設についての何ら具体的事業計画はなく、また本件売買契約書には被控訴人クラレが本件土地を工場敷地として使用する旨の条項は存しないのであるから、本件土地を工場敷地として使用するということは契約締結の動機、縁由ないしは契約の付随的債務の一にすぎず、本件売買契約の要素たる債務ではないと解すべきである。
仮に要素たる債務であると解するにしても、その債務の内容は工場敷地として使用するということであるから、被控訴人クラレが同三菱重工に本件土地を売渡しても同三菱重工が本件土地を工場敷地として使用する限り売買契約の目的は達せられるのであるから、岡山県に解除権は生じない。
2 被控訴人クラレは同三菱重工より本件土地の譲渡を要請された際、県の了承を得た上で譲渡する方針を決定し、岡山県の意向を打診したところ、岡山県は被控訴人クラレがポバール工場を県内に建設するなら了承について考慮するとの意向を示したので、被控訴人クラレは昭和四二年一一月一〇日岡山県に対し正式に本件土地の譲渡につき了承を求め、これを得たのち被控訴人三菱重工に対し本件土地を売渡したのである。従つてこの売渡しについて被控訴人クラレが責を問われる理由はないというべきである。
仮に右譲渡が被控訴人クラレの契約違反であるとしても、右譲渡について了承を与えた県が債務不履行を理由に本件売買契約を解除し得るとするのは条理に反する。
二1 控訴人の二の1の主張について
本件売買契約が私法上の契約であるということから直ちに県知事に対し解除権行使につき自由裁量を許さないという法律上の根拠はない。法の具体的執行である行政行為についても行政庁の自由裁量が認められているのであるから、私法自治の原則の下に行為者の自由な意思の発現が一層認められる私法上の行為に対し自由裁量は当然認められて然るべきである。県知事は解除権を行使した場合としない場合とで岡山県に生じる法律上経済上の利害得失ないし行政効果等諸般の事情を考慮して解除権行使の可否を決すべき裁量権を有するのである。
2 控訴人の二の2の主張について
地方自治法は地方公共団体の長に対して裁量権を一般的に否定する旨の規定は設けておらず、議会の議決に服する事項を制限的に列挙する形式をとつているから、この制限に当らない限り財務会計上の問題であるからといつて自由裁量を否定すべきことにはならない。
(被控訴人クラレの主張)
本件売買契約は他の誘致企業に対する土地売買の場合とは異り、工場誘致が目的ではなく、岡山県開発公社の基本金捻出が主目的であつたから、工場建設が本件売買契約の要素たる債務ということはできない。
しかも被控訴人クラレの工場建設が予定どおり進まなかつたについては次のような事情があつたのである。即ち昭和三六年六月川崎製鉄株式会社が本件土地の西隣りに進出することに決定し、製鉄所の粉塵が合成繊維の生産に悪影響を及ぼすことから被控訴人クラレとして本件土地に当初の計画どおり合成繊維工場の建設をすることを断念せざるを得なくなつた。そこで被控訴人クラレは本件土地で石油化学事業を企業化する計画を立てたところ、提携先となるべき企業の業績が昭和三八年頃から悪化した上、昭和四一年からは被控訴人クラレの計画していた生産規模の工場では通産省の認可が得られないことになつた。
従つて被控訴人クラレが本件土地に工場を建設できなかつたについては十分合理的な理由があつたのである。そして被控訴人クラレは、同被控訴人が右のような事情から企画するに至つたポバール製造(その原料となるエチレン等は他の石油化学会社から購入する。)のための工場を岡山県内に建設することを条件に岡山県から本件土地譲渡の了承を得たのであるから、岡山県がその後に至り債務不履行を理由に本件売買契約を解除することはできないというべきである。
(被控訴人三菱重工の主張)
一 被控訴人クラレが昭和四二年一一月上旬本件土地に工場を建設することを断念して本件土地を被控訴人三菱重工に売渡す方針を確定したとしても、これは被控訴人クラレの内部的意思の決定に過ぎないから、これによつて本件売買契約の履行が不能となつたとは解することができず、従つて岡山県に契約解除権が生じたということはできない。
二1 控訴人の二の1及び3の主張について
契約の解除権はそれが地方自治法上の解除権であろうと民法上の解除権であろうと私法上の権利であることに変りはなく、県知事はその職責上、公益上の必要性の有無を総合判断して解除権を行使すべきか否かを決すべきである。従つて県知事には当然裁量権が与えられている。
2 控訴人の二の2の主張について
地方自治法は地方公共団体の長の権限に対する規定を設けるに当り、裁量権を一般的に否定した上で例外的にその禁止を解除するという方法をとらず、議会の議決等の制約に服する事項を制限的に列挙する形式をとつているから、このことからすれば地方公共団体の長に対して裁量権が本質的に与えられていないというのは誤りである。
三 控訴人の四の主張について
被控訴人三菱重工が昭和五〇年までに二〇〇億円を投資する計画を表明した事実はあるが、それは同被控訴人の本件土地を含めた水島製作所全体に対するものであり、この投資計画は昭和五二年上期までに実行されている。また本件土地は自動車生産設備のみでなく、車両発送場、協力工場、福利厚生設備(従業員の駐車場)にも利用する計画であり、現にそのように利用されている。
(証拠)<省略>
理由
一 当裁判所も控訴人の本訴請求のうち被控訴人岡山県知事に対する怠つた事実の違法確認請求の訴えは却下すべきであり、被控訴人岡山県知事に対するその余の請求、被控訴人加藤武徳、同クラレ、同三菱重工に対する各請求はいずれも棄却すべきものと判断する。その理由は次に付加、訂正するほか原判決の理由説示と同一であるからこれを引用する。
1 原判決一〇枚目表一二行目の「取消す」を「取消しても第三者である被控訴人三菱重工の権利を害することができず、従つて本件土地を取戻す」と、同裏五行目及び一二枚目裏九行目の「被告三菱重工」をいずれも「被控訴人ら」と、同裏二行目の「犠性」を「犠牲」と、一三枚目裏八行目の「また、」の次から一一行目の「なくても」までを「同条同項第四号後段に掲げる諸請求の相手方を当該行為若しくは怠る事実の直接の相手方のみに限定するならば請求の実をあげ得ない場合の生ずる恐れがあるから、本件の被控訴人三菱重工のように、直接の相手方ではなく、転得者にすぎない者であつても」と、一四枚目裏一一行目の「その記載の形式、内容」を「被控訴人加藤本人の供述」とそれぞれ改め、一五枚目表八行目の「甲一七号証」の次に「原本の存在及び成立に争いのない甲第一八ないし第二〇号証、第二四号証、成立に争いのない第二二、第二三号証」を、九行目の「争いのない」の次に「甲第四一号証、」を、一二行目の「細川恭夫」及び裏一行目の「結果」の次に「(後記措信できない部分を除く。)」を、一七枚目表一二行目の「結ばれた」の次に「(この事実は被控訴人三菱重工を除く当事者間に争いがない。)」をそれぞれ加え、一九枚目表八行目の「代金」から、八、九行目の「五〇〇〇円で」までを削り、一〇行目の「ない。」を「なく、売買金額の点については被控訴人三菱重工以外の被控訴人らの認めるところである。」と改め、同裏二行目の「(右の細目協定書」から三行目の「証拠はない。)」までを削り、二一枚目裏二行目の末尾に「このように登記が後れたのは本件土地の一部に対する耕作者の立退問題について、その解決に日時を要したことによるものであつた。」を、九行目の「岡山県は」の次に「県勢振興のために」を加え、一〇行目の「県内」を「水島(本件土地)」と改め、末行の「建設すべきか」の次に「或は岡山市海岸通りに従来から存在していた岡山工場内に建設すべきか」を、二二枚目表八行目の「賃貸していた。」の次に「ところが被控訴人三菱重工では同社水島工場の自動車生産高を当時の月産一万七五〇〇台から昭和五〇年には月産四万台にする計画を立てていたので、これを達成するには従前の所有地だけでは狭隘であつた。」をそれぞれ加え、九、一〇行目の「について」から一〇行目の「重ねた結果、」までを「をうけるや、岡山県に対し被控訴人三菱重工へ譲渡することについて了承してもらえるかどうかの意向を打診したところ、岡山県は被控訴人クラレがポバール工場を県内に建設するなら了承を考慮する余地もあるとの態度を示したため、被控訴人クラレは」と、末行の「県」を「工場」と改め、同裏五行目の「一応」を削り、六行目の「市」を「工場」と改め、二三枚目裏一〇行目の「認められ、」の次に「証人細川恭夫の証言並びに控訴人(原審)及び被控訴人加藤各本人の供述のうち以上の認定に牴触する部分は措信できず、他に」を加え、二四枚目裏六行目から二五枚目裏一一行目までを削り、一二行目の「3」を「2」と、一二行目から一三行目にかけての「意思、能力が」を「意思も能力も」と改める。
2 同二六枚目表五行目の次に次のとおり加える。
「3 控訴人は、被控訴人県知事が被控訴人クラレにおいて本件売買契約に定められた工場建設義務を履行しないことを理由として同契約を解除することができたと主張するので、この点について判断する。
(一) 前記一の5及び6の認定事実によると、本件売買契約に先立ち岡山県、被控訴人クラレ及び倉敷市の三者間で協定が締結され、その時作成された協定書には次の事項、即ち被控訴人クラレは倉敷市水島地内において石油化学関連工場の建設を計画し、岡山県と倉敷市がその建設及び操業に協力すること、岡山県は被控訴人クラレの工場敷地として本件土地を被控訴人クラレに譲渡することが定められており、また被控訴人クラレは岡山県から協定書に添付するための工場建設計画書の提出を求められた際、当初は水島における事業が未だ構想段階にあるとの理由からこれに応じなかつたが、最終的には計画書を提出し、その後本件売買契約が締結されたのであるから、このような経緯に照らすと、本件売買契約は被控訴人クラレが本件土地に工場を建設することを目的として締結されたものと認めることができ、従つて被控訴人クラレが本件土地を工場敷地として使用するということは同被控訴人の本件売買契約上の要素たる債務とされたものというべきである。もつとも別紙工場設立計画書が作成されて協定書に添附されるに至つた経緯として前記一の5に認定したところからすれば、被控訴人クラレが右債務の履行として本件土地に建設すべき工場の種類、規模及びその履行期については確定的な定めはなかつたものと解するのが相当である。前記一の2及び4で認定したように、岡山県にとつて県開発公社の基本金として出資すべき三億円の金員の入手が本件売買契約締結の目的の一つであつたということ、前記一の5で認定したように、昭和三五年二月二四日の協定に岡山県及び被控訴人クラレのほかに倉敷市も当事者として加わつていたこと、協定書に岡山県及び倉敷市が被控訴人クラレのためになすべき事項も定められていたということは、いずれも右のように解することの妨げとなるものではない。
(二) 控訴人と被控訴人県知事及び同加藤との間で原本の存在及び成立に争いがなく、その余の被控訴人らとの間では控訴人本人の原審供述により原本の存在及び成立の真正であることが認められる甲第四号証、控訴人と被控訴人県知事、同加藤及び同クラレとの間で成立に争いがなく、被控訴人三菱重工との間では証人細川恭夫の証言により真正に成立したと認められる甲第五ないし第七号証、控訴人と被控訴人県知事及び同加藤との間で原本の存在及び成立に争いがなく、その余の被控訴人らとの間では証人柴田健治の証言により真正に成立したと認められる甲第一三号証、控訴人と被控訴人県知事及び同加藤との間で原本の存在及び成立について争いがなく、その余の被控訴人らとの間では弁論の全趣旨により原本の存在及び成立の真正であることが認められる甲第一四号証、控訴人と被控訴人県知事及び同加藤との間で原本の存在及び成立について争いがなく、その余の被控訴人らとの間では証人荒木栄悦の証言により原本の存在及び成立の真正であることが認められる甲第一五号証によると、次の事実、即ち被控訴人クラレは本件土地上に計画していた工場の建設に容易に着手しなかつたので昭和三九年頃から岡山県議会でこれが問題となり、そのため岡山県はしばしば被控訴人クラレに対し工場建設の促進を要請していたこと、これに対し同被控訴人は延引を詫びると共に猶予を乞い、岡山県もこれを了解していたこと、同被控訴人はその後昭和四一年七月三〇日付の念書を以て岡山県に対し、昭和四二年一二月末までに建設計画を提出するがそれができないときは協定書の精神に則して県知事と協議する旨を約したことが認められる。
ところが被控訴人クラレは一の9の(一)で認定したように、建設計画提出期限の到来前である昭和四二年一一月一〇日岡山県に対し本件土地を被控訴人三菱重工へ譲渡することについて了承を求めてきたのであるから、これは被控訴人クラレが最早本件土地上に工場を建設する意思のないことを示すものということができる。然し岡山県が被控訴人クラレの前記念書の内容について同被控訴人に対し異議をのべた形跡は窺われないことからすれば、岡山県として前記念書の内容を承認したものと見るほかなく、同念書によつても昭和四二年一二月末日は建設計画提出の期限であつて工場建設の期限ではないのであるから、岡山県と同被控訴人との間において工場建設の履行期はまだ定められていなかつたことにならざるを得ない。従つて同被控訴人は本件土地を工場敷地として使用するという債務について当時履行遅滞に陥つておらず、岡山県が同被控訴人の債務不履行を理由に本件売買契約を解除するためには先ず工場建設の債務について相手方を遅滞に陥らせ、更に催告の手続を踏むことが必要であつたのである。たとい同被控訴人に工場建設の意思、即ち債務履行の意思のないことが明らかになつても、そのことによつて直ちに履行遅滞に陥る訳ではないから解除の要件は満たされておらず、況や催告もせずに解除することは法律上許されないのであり、また履行意思のないことを履行不能と捉え、催告なくして解除できるとの解釈も、証人加藤哲弥の証言から窺われるように、被控訴人クラレが岡山県の態度如何によつて飜意する可能性を否定できなかつた以上、成り立ち得ないものというべきである。
要するに本件売買契約において被控訴人クラレが本件土地を工場敷地として使用することは同被控訴人の契約上の債務ではあつたが、これについて履行期の定めはなかつたから、同被控訴人が岡山県に対し本件土地を被控訴人三菱重工に譲渡することについて了承を求めても、これによつて岡山県に対し本件売買契約の解除権を生ぜしめるものではなく、従つて岡山県知事であつた被控訴人加藤に解除権行使の義務を認める余地はないといわざるを得ない。そして被控訴人クラレが本件土地を被控訴人三菱重工に譲渡するについて岡山県の了承を得たことは先に認定したとおりであるから、この譲渡によつて岡山県が本件売買契約の解除権を取得したとすることもできない。若し被控訴人加藤に責められるべき点ありとするならば、それは同人が岡山県知事として被控訴人クラレに対し右の了承を与えたことにあるというほかない。蓋し一旦右の了承を与えれば最早岡山県が被控訴人クラレに対し本件土地を工場敷地として利用すべき債務の不履行を理由に本件売買契約を解除する権利は失われることになるといわざるを得ないからである。」
3 同二六枚目表六行目冒頭から二七枚目表二行目末尾までを次のとおり改める。
「三 そこで次に岡山県知事の職にあつた被控訴人加藤が被控訴人クラレに対し前記の了承を与えたことによつて如何なる責任を負うかについて判断する(控訴人の主張にはこの判断を求める趣旨が明示されていないが、被控訴人県知事が善良な管理者としての注意義務を怠つたという主張、被控訴人加藤が県知事として本件土地売買契約につき有した解除権、取消権の放棄又は不行使の合意をしたとの主張がある以上、控訴人の主張を逸脱して判断を与えたことにはならないものと解する。)。
地方自治法一四九条、一三八条の二、二四二条、同条の二の規定によれば、県知事は県行政の責任者の一人として県有財産を有効適切に管理する義務を負い、いやしくも管理を違法に怠つて県に損害を与えるときはその賠償義務を負うことが明らかである。そして契約解除権はこれによつて財産を取戻すことのできる権利の一つであるから、解除権の喪失を招くような所為に出ることは財産の管理を怠ることに当るものと解すべきである。被控訴人加藤が被控訴人クラレに対し前記了承を与えることによつて岡山県が本件売買契約の解除権を失うことになることは先にのべたとおりであるから、被控訴人加藤において前記了承を与えたことが地方自治法の規定に照らし違法といえるか否かについて更に検討を進める。
ところで岡山県知事であつた被控訴人加藤として、被控訴人クラレから被控訴人三菱重工に対する本件土地の譲渡につき了承を求められた際、これに応ずべきか或いはこれを拒否してあくまで工場建設を要求し、これに応じないときは本件土地の取戻しを計るべきかについては、前者をとる場合と後者をとる場合とによつて岡山県に生じる利害得失を法律上、経済上その他諸般の見地から総合的に判断してこれを決すべきであるといわなければならない。
これを本件についてみると前記一に認定したところに前掲甲第一七号証、証人細川恭夫の証言及び被控訴本人加藤の供述並びに弁論の全趣旨を総合すれば、被控訴人加藤は次の諸点、即ち岡山県が県開発公社の基本金を捻出することも本件売買契約の目的の一つになつていたこと、被控訴人クラレは当時水島地区において石油化学事業、合成繊維製造事業を行う構想は有していたが、具体的な計画はないまま本件売買契約に応じたものであること、被控訴人クラレの工場建設が遅れたのも経済状勢の変動、監督行政庁の行政指導方針の変更などやむを得ない事情によるものであつたこと、被控訴人三菱重工は自動車増産のため既存の工場敷地に隣接する本件土地を譲受け、工場敷地として使用しようとするものであり、被控訴人クラレにおいても被控訴人三菱重工に対する譲渡について岡山県の了承を得るべく、その要請に従い、或程度の犠牲を払つてもポバール工場を岡山工場内に建設しようとするものであつて、本件土地が被控訴人三菱重工に譲渡されても県勢の振興に寄与する結果となる点において変りはないこと、これに反し本件土地の譲渡に対して了承を与えることなく工場建設を要求し、被控訴人クラレがこれに応じないときには債務不履行を理由に本件土地の取戻しを計るならば、返還義務の有無を廻つて同被控訴人との間に紛争が生じ、その解決には時日を要すると予想されることから本件土地は相当長期にわたり遊休化する恐れがあり、かえつて県勢の振興に寄与する所以でないことなどを比較考量し、被控訴人三菱重工に対する本件土地譲渡を了承する方が得策であるとの判断に達したものであることが認められ、この判断には十分合理性が認められるということができる。従つて被控訴人加藤が岡山県知事として被控訴人クラレに対し前記了承を与えたことに何ら違法はなく、また善良な管理者としての注意義務に欠けるところもなかつたというべきであり、そうであるとすれば、被控訴人加藤が被控訴人クラレから被控訴人三菱重工に対する本件土地の転売を積極的に斡旋した事実が仮にあつたとしても、これを非とする理由はない。してみれば被控訴人加藤に岡山県に対する損害賠償の義務はなく、また被控訴人クラレから被控訴人三菱重工への本件土地譲渡については岡山県が了承を与えている以上、両被控訴人が岡山県に対し損害賠償の責に任ずべきいわれもない。」
4 同二七枚目表四行目の「解除権、」の次に「被控訴人クラレの債務不履行に基づく本件売買契約の解除権、」を、七、八行目の「行使し」の次に「、本件土地を取戻すべきであつたのにこれをし」をそれぞれ加える。
5 控訴人は原判決が憲法七六条三項に適合しない裁判官による裁判であるとしてその違法を主張するが、そのような事実を認むべき資料はないから右主張は採用するに足りず、また原裁判所の構成員である裁判官竹原俊一が昭和五二年四月一日福井地方裁判所武生支部へ転任したとしても、結審した昭和五一年一〇月二七日より右転任の前日までには十分合議が可能であり、言渡しが翌五二年一二月二七日であることから同裁判官がその合議に加わつていなかつたと見ることもできないものというべきである。
二 以上により当裁判所の判断と結論を同じくする原判決は結局相当であり、本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民訴法九五条本文、八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 福間佐昭 喜多村治雄 下江一成)